賛育会ヒストリー

第二章:賛育会を支えた人々 第一話 初代理事長 木下正中「一つ応援しようではないか、そして俺の考の実現に協力してくれないか」ここでわが賛育会の生れ出る受精作用が行われたと見るべきだ。(第3代理事長 藤田逸男著 賛育会物語より抜粋)

初代理事長 木下正中
初代理事長 木下正中

木下正中氏、1869(明治2)年8月19日生まれ。若狭(福井県)出身。
東京帝国大学医学部を卒業後、ドイツへ留学。1903(明治36)年東京帝国大学医科大学産科学・婦人科学教室主任(現在の教授職)に就任。日本の産婦人科界の先駆として活躍した。

そんな木下と賛育会との出会いは運命的なものがあった。1917(大正6)年9月に東京帝国大学を退職すると、それを機に欧米視察へ行き社会事業についても多くを視察した。その中で『老後の仕事として、「下層者」のための産院を作ってみたいと考えた』と、帰国後の1918(大正7)年初頭、東大基督教青年会(東大YMCA)において、医学部の人の集まりで話したことがあった。その話を契機に木下の所へ相談に訪れたのが、賛育会の前身ともいえる「大学青年会医院」で診療活動に従事する河田茂であった。活動の場を広げようと漠然とした計画を語る河田の話を聞き、語られたのが冒頭の言葉である。
木下と当時、東京帝国大学で教鞭をとっていた吉野作造の協力を得て、1918(大正7)年3月16日設立発起人会を開き、かくして賛育会は産声を上げたのであった。

賛育会創設期における木下の役割はきわめて大きく、その体を成すにあたっては、木下なくして成しえなかったとも言える。
1919(大正8年)年に賛育会が診療所での働きを拡大し、日本初の庶民の為の産院『賛育会本所産院』を建設する際も、その資金のほとんどを、木下独りの働きによって調達されたといって過言ではない。
また、賛育会を支える運営資金を集める為、帝国劇場で興行を開いた時も、「あの帝大の木下先生が何か始めたぞ」と人々に知れ渡り、その席を満席に埋めたこともそうである。1923(大正12)年の関東大震災からの復興時に、ロータリークラブからの寄付に添えて「木下博士の賛育会に」とあったことからも、その名声が見て取れる。

1926(大正15)年9月10日、賛育会は初代理事長を木下正中とし、財団法人として組織の装いを新たにした。しかし、自身が院長を勤める浜町病院の震災復興に勤しむ中、第1回理事会にてその職責を吉野作造に譲り、木下は評議員として賛育会を支え続けた。

賛育会病院初代院長 河田 茂「人にせられんと思ふことは、人にも亦その如くせよ」「己のごとく汝の隣を愛すべし」この聖句が我等の憲法である。(賛育会顧問 齊藤實著「賛育会を育てた人びと」より)

賛育会病院初代院長 河田 茂
賛育会病院初代院長 河田 茂

1890(明治23)年1月2日生まれ、埼玉県出身。
熊本の第五高等学校に入学、在学中に千反畑教会(現材の錦ケ丘教会)にて受洗。その後、東京帝国大学医科大学医学科へ進学。東京帝国大学学生YMCAに入会し、多くの知己を得た。

1917(大正6)年、東京帝国大学学生YMCA「大学青年会医院」が開設され、近隣の人びとへの無料診療に医師として中心的な働きを成す。1918(大正7)年、その働きを拡大すべく木下正中・吉野作造らと共に同志的団体の「賛育会」を設立し、賛育会妊婦乳児相談所を開設。賛育会常務理事と相談所の医師として下町の母子の為に一身を捧げた。
翌年、土地の事情により本所区柳島梅森町(現、太平3丁目あたり)に「賛育会本所産院」として移転開設。1923(大正12)年、賛育会本所産院院長に就任した。同年9月1日に関東大震災にて罹災するも、宮内庁へ赴き交渉の結果、壱千円の救済金を下賜され、賛育会を復興の途につけた。この賛育会の再生にあたり、その働きを善意に依存する従来の救貧慈善事業から、実費徴収方式の社会事業へと転換し、1926(大正15)年の財団法人化へと発展する。これは、患者を「施される立場」から、「自立への支えを必要とする立場」へと昇華させただけでなく、必要な運営費を自ら賄うことで賛育会運営を自立させる契機となった。

やがて1930(昭和5)年に本所産院は、鉄筋3階建ての賛育会病院と発展し、その初代院長に就任する。その後、1959(昭和34)年に天に召されるまで賛育会病院院長として、賛育会内外を問わず社会事業に情熱を注ぎ続けた。紫綬褒章(1944年)、勲五等瑞宝章(1960年)が授けられた。

第三話 賛育会常務理事・清風園初代施設長 丹羽 昇「幸い、賛育会は医療機関をもっているので、賛育会こそは、この開拓的使命を果たすべきであると確信した。」(賛育会顧問 齊藤實著「賛育会を育てた人びと」より)

賛育会常務理事・清風園初代施設長 丹羽 昇
賛育会常務理事・清風園初代施設長 丹羽 昇

1902(明治35)年5月12日生まれ、東京都出身。
父の仕事の都合で、京都・京城(現在のソウル)と転居。17歳で京城基督教会にて受洗。山口高等学校を経て東京帝国大学文学部社会学科へ進学。当時、吉野作造が理事長を務める東京帝国大学学生YMCAに入会する。

1927(昭和2)年、大学を卒業後、横浜YMCA主事になるも、半年後に退任。同10月に東京帝国大学学生YMCAの主事となった。1931(昭和6)年、東大学生YMCA主事の先輩である藤田逸男の招きにより、賛育会に就職。賛育会共済組合を発足させ、職員互助の仕組みを作った。1932(昭和7)年7月には、賛育会主事に就任し、賛育会での全力投球が始まる。同10月、賛育会ニュースを創刊。題字は吉野作造によるもので、今も引き継がれている。
医務全般を統べる常務理事・院長の河田茂と共に、内務外務の諸事務を掌握する本部主事として、賛育会の両輪の片側を担った。

1942(昭和17)年、賛育会常務理事に就任するも、1944(昭和19)年、日本陸軍に召集され、1945(昭和20)年復員。賛育会の気配を訪ねて焼け跡を歩くある日、復員していた同僚・竹岡秀策と再会。これに力を得て1946(昭和21)年6月、賛育会病院は太平町の焼ビルで診療を再開し、戦後復興の第一歩を成し遂げた。
賛育会のみならず、日本の社会事業に資する働きにも身を投じていた丹羽は、世の中の動向を俊敏に捉え、老人人口急増への社会的課題へ開拓的に取組み、1964(昭和39)年7月、特別養護老人ホーム清風園を開設し、常務理事のまま初代施設長となった。
1972(昭和47)年に天に召されるその時まで、賛育会の、いや日本の社会事業の発展に奔走し続けた。藍綬褒章[1969(昭和44)年]、正五位勲三等瑞宝章が授けられた。

第四話 賛育会三代目理事長 藤田逸男「斯る人物を有する賛育会が再建不可能なりとは誰も考えないであろう。物語はこれで終る。明五日は僕の第六十六回の誕生日である」[昭和二七年九月四日記](~藤田逸男著 財団法人賛育会三十年外史「賛育会物語」より~)

賛育会三代目理事長 藤田逸男
賛育会三代目理事長 藤田逸男

1886(明治19)年9月5日生まれ、岡山県出身。
苦学した中学時代岡山教会で受洗。旧制六高を経て、東京帝国大学文学部へ進学。東京帝国大学学生YMCAに入会する。当時のYMCAには片山哲、河田茂、星島二郎らがいた。

1913(大正2)年、大学を卒業後、東京帝国大学学生YMCA主事となり、追分会館完成後は専務理事として会館運営にあたった。1917(大正6)年、賛育会の前身である東京帝国大学学生YMCA「大学青年会医院」を開設し、その後、河田茂と共に賛育会設立の中心を担う。賛育会設立趣意書は藤田の記したものである。二代目理事長の吉野作造が逝去した後を継ぎ、1933(昭和8)年から1956(昭和31)年に逝去するまで、第三代理事長として23年間、賛育会の運営に当たる。その間、戦時下における運営、東京大空襲で全拠点を焼失した後の解散、長野県への妊産婦乳幼児の疎開、賛育会病院再建と賛育会の復興、静岡県での東海病院設立と激動の時代を乗り切り、その苦闘を、財団法人賛育会三十年外史「賛育会物語」として纏めた。

賛育会とは別に、日本で最初の生活協同組合「家庭購買組合」を創設し専務理事として運営にあたる。戦時の物資統制と東京大空襲で組合すべてを失うも、戦後、民間から要求した法律案第一号である「消費生活協同組合法」の制定に尽力した。これは、現在、およそ1000組存在する各生協の根拠法令である。

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