賛育会ヒストリー

第三章:賛育会 事業はじめて物語 第一話 豊野病院(豊野事業所):長野県長野市豊野町

1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲で賛育会は、ほぼ全事業拠点を焼失。同12日に焼けた賛育会病院屋上で、賛育会病院の解散式を行なった。
退職金を支給後、残った資金で何をすべきかを必死に模索した藤田逸男理事長は、賛育会病院院長 河田茂、賛育会病院小児科部長 長谷川雅雄、大井病院小児科部長であった佐藤次郎と協議し、蓼科の瀧温泉ホテルを借りて、妊産婦乳児幼児120名の命を守るために疎開させた。
その後、戦争の終結が見通せない中、戦時中の安全地帯は農村でもあることから、東京から農村への進出を決め豊野を候補地とした。理由は、長野市近郊、鉄道の分岐点、リンゴの産地で有名だったことだという。

早速、豊野の神郷村を訪ね、病院開設計画を説明すると、申し出は快諾され、村を挙げての協力を得られることとなった。早速、理事会にて豊野経営方針を決定、建設候補地を長野県上水内郡神郷村字豊野としたが、建築が始まる前に終戦を迎えた。しかし、人々の思いを受け、東京に引き揚げることなく豊野病院計画は進められた。これが村長はじめ村民の賛育会に対する信頼となった。

豊野病院仮診療所

建設用地の選定、建設共に難航するも、関係者の尽力で1945(昭和20)年4月に着工。しかし金融措置令・物価高騰・資材不足・資金難等で難儀し工事は長期化、その間、村民の要望を受け、1945(昭和20)年8月に村内の伊豆毛神社社務所にひとまず豊野病院仮診療所を開設。1947(昭和22)年8月11日にようやく完全な竣工を迎えた(240坪・21床)。
かくして、賛育会の豊野事業所の基礎が築かれたのであった。

第二話 東海病院(東海事業所):静岡県御前崎市池新田

1948(昭和23)年の春、賛育会は戦災で焼失した乳児院の復興を未だ果たせていなかった。そこで戦後の厳しい食糧事情を考慮し、乳牛を飼育し野菜を栽培する酪農兼営の乳児院建設を計画した。候補地を探し始めたところ、評議員の筧光顕氏(立教大学教授)から、かつてハワイで牧師をしていたときの教会員、増田寅吉氏が静岡県小笠郡朝比奈村にいるので相談してはどうかと助言があった。これ幸いと同年7月、丹羽昇常務理事が筧氏と共に増田氏を訪ね、地元有志の方々に計画を説明するも、乳児院は経営の前途に不安が感じられる、むしろ病院を経営してほしいとの意見が強く出された。当時、朝比奈村周辺では診療所はあるが、入院できる病院はなく、約40km離れた静岡市まで行かなくてはならなかった。そこで長い間医療事業をしてきた賛育会であれば、病院を経営したらどうかとなったのである。

東海病院(東海事業所)

その後、建設予定地である小笠郡池新田町宮本町長や篠崎助役をはじめ、近接四ヵ村(朝比奈・新野・比木・佐倉)の村長・助役らの賛育会病院見学、さらには農村医療施設として実績を重ねる豊野病院の見学を経て関係者の思いは強まり、異例ではあったが池新田町を中心とする五ヵ町村が協力して病院を新築し、その診療・経営一切を賛育会に委託されることとなった。

病院は『東海病院』と命名され、1952(昭和27)年4月24日に落成開院式を挙行した。敷地は1200坪、建物は300坪、病床数は24床で開設し、その後施設を拡充しながら、地域の未熟児保育・医療社会事業・公衆衛生活動・助産施設、等その役割を大いに果たし、現在の東海事業所の礎となった。

第三話 清風園(町田事業所):東京都町田市金井

1950年代後半(昭和30年代)、社会保険制度・生活保護制度の整備に伴い、賛育会病院を中心とする賛育会の医療事業は社会事業としての使命に限界を来していた。一方で、日本の平均寿命は伸び続け、賛育会病院でも高齢者の入院者の増加に伴い介護を要する高齢者の退院先に苦慮していた。当時は『介護』という言葉もなく、老人ホームは生活困窮者としての高齢者を想定しており、日常生活で介助や看護を必要とする高齢者は入所を断られることも多かった。当時の常務理事丹羽昇は、自身でも90歳を超える父親の介護という課題に直面しており、医療機関を営む賛育会こそが開拓的使命をもって取り組むべき社会問題としてこれを捉えたのが1957(昭和32)年頃であった。

翌年から建築資金の確保と土地を探し求め、1960(昭和35)年に東京都町田市の玉川学園付近の土地約2300坪を購入できた。次いで、日本各地の老人ホームなどを見学し、新規事業への学びを重ねながら建設計画がスタート。1963(昭和38)年には、当時、老人福祉施設建築の権威であった日本大学助教授の木下茂徳氏に設計を依頼できたこともあり、計画は一層の進展を見せた。そして老人福祉法の制定された年、1963(昭和38)年12月7日に着工し、翌1964(昭和39)年7月27日に特別養護老人ホーム「清風園」(100床)が開設され初の入居者を迎えた。

清風園(町田事業所)

清風園の名は、当時の理事長片山哲が好んだ漢詩の一句『清風自来』から採ったものである。斯くして、賛育会の、いや日本の高齢者福祉事業の先駆けである町田事業所が産声を上げ、医療事業と並び、今日の賛育会を支えるもう一つの柱へと成長したのである。

第四話 東京清風園(中央・墨東事業所):東京都墨田区

1977(昭和52)年、賛育会病院南側の敷地に12階建てのマンション建設計画が浮上した。そのマンションが建つと7階建ての賛育会病院はすっぽり日陰に覆われることになる。そこで地元の建設反対同盟に加盟、墨田区長斡旋による交渉、裁判所による調停などを経て、マンション計画は中止となった。代わりに、地元から要望のあった「老人センター」建設で和解が整い、賛育会は喜びをもって新たな老人福祉事業を開設することとなる。

東京清風園(中央・墨東事業所)

1979(昭和54)年に理事石原力、岡田良一らを初めとする建設委員会が発足、4月には、東京YMCA野辺山高原センター所長の大内康平を賛育会本部企画課長として迎え、計画は進む。1981(昭和56)年1月に起工し、同年10月に竣工、11月21日に竣工式を挙行した。こうして、鉄筋コンクリート6階建て、延床面積1689.13㎡、定員50名の特別養護老人ホームとケアセンター(短期入園・入浴・機能回復訓練サービス他)を備えた都市型特別養護老人ホーム「東京清風園」が開設したのであった。

この「都市型」特養は、賛育会が提言する「福祉社会」の形成を意識した施設であった。つまり、都心に住む人にとっては、住み慣れた都心で余生を送りたい思いがあり、その思いに寄り添うために、広い土地が得られにくい都心で、高層建築という技を駆使し、住み慣れた都心で余生を過ごせる東京清風園を生み出したのであった。

2012(平成24)年5月1日、東京清風園は特養の158床への増床に加え、グループホーム・ケアハウスへと機能を拡張し墨田区立花へ移転、「福祉社会」の充実発展の為に、墨東中央事業所の中核として、その役割を果たしてきている。

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